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野良子猫フクを保護し、数年ぶりに猫を飼い始めた私の、その後フクと過ごした生活と思い出、そして今までのつぶやき
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2008/08/07 (Thu)
今日、どうしても見たい番組があった。
それはNHKの
「封印を解かれた写真が語る~NAGASAKI」だった。

見逃さないように30分も前からTVの前で待っていた。

そして・・・

原爆投下された当時、米軍カメラマンがひそか撮影していた爆心地内の写真
彼は太平洋戦争の真珠湾攻撃にて日本人への憎しみと復讐のために軍へ志願した。
そして原爆が投下された長崎に記録係として踏み入った。
そこで受ける衝撃

本来ならば、軍の許可なしに撮影することを禁止されていたはずなのに
彼は爆心地の惨状や、被爆者たちの姿を見るにつれ
次第に何かに突き動かされるように、密かに人々などを撮影し始めたのだ。

原爆とはどういうものだったのか
はたして、正しいものだったのか

彼は惨状を目の当たりにして
次第に悪夢にうなされてゆく。

そうして、アメリカへ帰国後その写真は封印された。
何年も何年も。
軍を退役し、結婚し、子供に恵まれ、幸せな家庭を築くことができた。
そのまますべて忘れてしまえたらよかったけれど

彼はいつまでもあの時の長崎の光景が忘れられず、苦悩していた。

その後、原爆投下の指示をしたスターリン大統領付きの報道カメラマンとなった彼は
一度だけスターリンに尋ねたという。

「原爆投下を後悔したことはないですか?」

大統領はこう答えた。

「思わないことはなかったが、核投下は私のアイデアではない。
私は前の大統領から引き継いだだけだ」

一方、原爆の放射能によって彼の体も次第に蝕まれていた。
これは原爆のせいだ。
そう確信した彼は軍に訴えた。
放射能のことなど、何も知らされていなかった。
そんなところに行かせたのか。
しかし、軍はなにもしてくれなかった。

そんなある日、彼はある修道院で核廃絶のシンボルの彫刻を見て衝撃を受け
「何かしなければ。
この写真のことを伝えなければ」と強く思ったという。

そして、何十年も封印していた写真を解き
人の目に公開することにした。

しかし、それに対して世間の彼に対する風当たりは強く、批判も多く寄せられた。
「祖国を裏切るのか」
「原爆投下は正しい。謝る必要なんてない」

しかし、彼の息子や娘は理解してくれていたのは幸い。

彼は言う。
「私は祖国を愛しているがゆえに、過ちをそのままに見過ごしておけない。
歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史がある。
100年たっても、間違っていたと言うだろう」

その後も彼は各地で写真展を開く。
来日して、当時撮影した被爆者と再会する。

残念ながら、彼が一番気にしていた火葬場にいた少年との再会は
とうとう果たせなかったけれど。

彼は1年前に亡くなった。

しかし、今、彼の息子が彼の意志を継ぎ
HP?で父の写真を公開しているという。

まだ祖国では批判は多いが
それでも少しずつ違った意見が届くようになった。






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は最後のほうで号泣していた。
とにかく胸がいっぱいになって。

1時間もなかった番組だったけど
見てよかったと思う。
見逃した人はぜひ再放送を見て下さい。



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2007/08/12 (Sun)

私も戦争を知らない世代の1人だが、戦争関連の物語や書籍などを読んで
やはり戦争はお互い何1つ生み出さないことよくわかる。(戦争商人はもうかるだろうが)

うちの父母は高齢なのでよく戦時中の出来事を聞くことがあったし、
中学の時に図書館で読んだ本にもショックを受けた記憶がある。

原爆平和記念日には毎年被爆者の方が平和の尊さを伝えることが、残された者の使命だとして、高齢ながらも命をかけて伝えていることが報道されている。

私もこの間日曜日の昼間だったか、タイのタイメン鉄道に関わるBC戦犯と呼ばれる方たちの番組を見た。
田原総一郎さんは好きじゃなかったけど、予告を見て、見てみたいと思った番組だ。

現場を知らない大本営の無理な命令によりタイメン鉄道を作った人々は、
大本営の命令により送り込まれた連合軍の捕虜を使い、
労働酷使、疫病や拷問などで死なせた結果、敗戦後、ジュネーブ条約違反等で、
連合国軍の裁判によりBC戦犯として絞首刑に処された。

番組では数人の人が特別にとりあげられていた。
遺族の人も「戦犯の子」としていじめられた経験をもっていたが
自分の父親が捕虜を拷問をしたとは信じられなかった。
だが、当時は上官の命令には背くことはできず。
また、戦争とは命を軽視させ、神経さえも麻痺させてしまう。
そして当事者の父は1人だけ有罪を認め、上官は無罪。

死刑に処される人をあの世へ送るために、お経を読むお坊さんが呼ばれたという。
(○○カイシとか言ってたけど、忘れた)
そのお坊さんは今も健在で(とはいえ90歳代で寝たきり)当時のことを語っていた。
本来ならば、遺書はすべて没収の上燃やされるのだが
もうすぐ命を失う彼らの遺書をなんとか遺族の元へ届けたいと思ったという。
そして、内緒で彼らの書いた遺書をこっそりとしのばせ持ち帰ったという。
124通だったか。
もちろん、そんなことが発覚すれば、そのお坊さんも捕われてしまう危険があった。
しかし、お坊さんは自分が捕まったときのことも考えて
預かった遺書を毎晩自分のノート(?)に書き写して隠していたという。
自分が捕われても、遺族の人に届けられるように。
そうして、その遺書は遺族の元へ渡った。
(全員は紹介されていないのでわからない)

いっさいの弁解もなく。
父が子供へあてた遺書には

「人に指をササレルヨウナ人間ニナルナ。立派ナ人ニナレ。
オ前ガ父ヲ供養スルトキ、父ハ共ニイルデアロウ」

27歳の青年が家族へあてた手紙には

「罪ヲ犯シテ命ヲオトスノデハナク、罪ヲ犯サズシテ命ヲ失ウコトヲ喜ンデクダサイ」

(すみません、うろ覚えです)

この青年はハーモニカの曲も作っていました。
無実の罪でこの南の地で命を失うことになったけれども、魂は祖国へと帰ってゆく・・・
そんな曲でした。

お坊さんは「私は彼らを戦犯者とは言いません。何も罪を犯していないのですから。
私は彼らを殉難者と言います。」

彼らの墓は、南の地で大きな墓地の片隅にひっそりと小さな墓標が立っているだけ。
しかも、その国で死んだ日本兵たちのことを聞いても、タイの人々は誰も語ろうとはしません。
某国のように声高に非難しなくても、彼らは戦時中のことを忘れないのだといいます。

 

そして、遺族の方は定年退職後初めて父のことを知りたいと思うようになり
父の拷問により障害やトラウマを負った元アメリカ兵の方に「会いたい」と手紙を書き、
相手の方から「待っている」と返事がきて会いに行きました。
元アメリカ兵の彼も長く日本を憎んでいました。今もトラウマで眠れないそうです。
けれど、「大切なのは過去ではなく未来だ」というメッセージを受け取りました。

番組はとてもこのページだけでは書ききれないですね。
でも、新たに知ったこともたくさんありました。

お盆前後には終戦記念にあわせて戦争の番組が放映されます。
というか、もはやその時期しか放映されません。戦争の悲惨さを知る機会も少ないです。
なので、バラエティもドラマも行楽地もいいですが、
数少ないこの機会にぜひいろいろな戦争関連番組を見て欲しいと思います。
(いい番組かどうかは個人の判断ですけどね・・・)

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* ILLUSTRATION BY nyao *