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野良子猫フクを保護し、数年ぶりに猫を飼い始めた私の、その後フクと過ごした生活と思い出、そして今までのつぶやき
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2012/06/26 (Tue)
父が亡くなる21~23日の間
病院にずっとつめていましたので
途中姉とは交代していたものの、1~2時間ほど横になるぐらいで
ろくに寝ていない状態で、そのまま父が亡くなったので
そのまま息つくひまもなく、超忙しかったです。
(今も忙しいけど、心の整理中)

あの後、病院から父が自宅に戻り
親戚が集まって、住職を待っている間も
葬儀の話し合いをしなければならず。

今回の葬儀では、母が喪主になりましたが
母は高齢で、体も不自由なため
それは名前だけで、実質は私が喪主となった感じです。
なので、挨拶もすべて私がしました。
(母と一緒に立って挨拶しました)
後で別に長女である姉が喪主でもよかったんじゃないかと思ったんですけど、その時はよくわからないまま私に話がふられたので、うなづいていました。
内心、父のことは私がしなくては・・・と思っていたのかもしれません。
とはいえ、私も全く初めてのことですし
そもそも知識がありません。
調べればわかることも、父が亡くなることを考えたくなかったので
事前に調べることもしていませんでした。

(こういう時、仕切ってくれる親戚がいれば頼もしいのですが
残念ながら、父に一番近い叔父は分家のため
全く葬儀に詳しくなく、それで何かと口を出してくるので
葬儀が終わるまで正直家族が閉口することも多々ありました)

私たちが、葬儀社の人と
あれやこれやと話をしている間に
仏間では、すでに住職さんがやってきてお経をあげていてくれました。
途中で合流しましたが、(病院でも涙はあふれましたが)
お経を聞いているうちに、また涙がこみあげてきました。

なんていうんでしょうか。
父が亡くなって
翌日の納棺の時も、斎場で骨になってしまった時も
父がいなくなったというよりも
父の存在はあるんだけど
その体はもう抜け殻で、父の魂が入っていないから
自分も何も感じない・・・みたいな。
その時はあまり悲しさを感じないのですが
今までの父の頑張りとか、後半のつらさを思うと
こんなに頑張ってきたのに、生きられなかったね・・・
私もいろんなことをしたのに、
もっと生きていけるかと思ったのに・・・
こんな数カ月で・・・と思うと
それで泣けてくるんですよ。

なので、泣かない時と、涙があふれる時の
気持ちのギャップというんでしょうか。
それがありますね。
冷静に見てる自分と、心を痛める自分と。

なので、(不眠と疲労で頭が働かなかったため)
お通夜での挨拶は
もうありきたりな、めっちゃ簡単な文を読んだだけ。
しかし、告別式はやっぱちょっと考えなきゃな・・・と
もらった香典の帳簿を整理したあと、考えてたら午前4時になってて
それでも、なんとか当日滞りなく葬儀をすませることができたのだけど
最期の挨拶は、
(具体的なことは言いませんでしたが)
父の闘病と、急変して息をひきとったことを簡単に言って。
そのまま淡々と読むはずだったのに
「それまでの道のりは決して平たんなものではなく」と言ったところで
今までの、父のつらいことが思いだされ、胸がつまり、涙があふれてきました。
「息をひきとる当日の朝も、自分の力で立ち上がろうと必死で、気丈で、
本当によくここまで頑張ったなという思いでいっぱいです」
そう、あふれる涙をこらえながら続けました。
たった数カ月でしたけど、ホントに長く感じました。
本当に父は頑張ったと思います。
(途中で、もう私たちは父に頑張れとは言えませんでした)
本当は、そんな簡単な言葉では言い表せません。
でも、人に病気であることを告げたくなかった父だから
最期まで強気な父を演出した・・・という思いも根底にありました。

ちなみに、式場の司会の人もプロだからでしょうか。
よくもまあ、私たち姉妹の話から
あんなふうに文章を組み立てるものだと感心しましたよ。
ある意味お涙頂戴みたいで、くさかったですけどね。
事前に、父について聞かれたんですよ。

「どんなお父様でした?」
姉は「小さい頃は厳しかったです」と答えていました。
私は一言では答えられませんでした。

「何か忘れられない思い出はありますか?」
私は、特に何もありませんでした。
この数ヶ月間の、闘病生活があまりにも鮮明で
個々の思い出はあっても、こんな暖かなエピソードがありました、という話は思いつきませんでした。
しいていえば、昔、祖父と孫に間違えられたこととか。

「最期にお父様に言いたいことは?」
と、聞かれたけど、特に何もなかったです。
あえて言うなら、「頑張ったね」ぐらいでしょうけど
っていうか、もうすべて言いたいことは父に言ってきたと思うので。
そりゃ、父が期待して、私にできなかったことは、ごめんねと言いたいけれど、出来ないものはどうしようもないんで。
小さなトゲのような後悔はどうしてもありますよ。

あれは急変する前、20日の日だったかな。
姉が病室に来た時、
「あしゃん、疲れたの?毎日だもんね」と声をかけてくれたんですけど、
父も「毎日やでなあ・・・」と言うんですよ。
(姉はたぶん、特に他意はないと思うんですけど
「お父さんが元気にならないと、あしゃんも自分のことができないから」と言ってたことがあって)
そのたびに、私は父が気にしないといいなあと思ってました。

周りが「あしゃん、えらいでしょ?」って心配して言うけど、
私は自分のことをえらいとか、父の世話をするのがつらいとか思っていませんでした。
そりゃ、父の食事を考えたり作ったりするのは大変だったけど
イヤイヤやってるわけじゃなかったし
ホントにつらいのは父の方だと知っていたし。

だから、姉が帰った後
私は父の目線に合わせて言いました。
「お父さん、私大変じゃないからね。気にせんといて。
私は好きでここにいるんだから。
私はお父さんといたいから、毎日来るんだよ」

そう言ったら、父は
「ようわかっとる。ようわかっとるで」
そう言って、ほんの少し泣いていました。

幸い?最期に父を看取ることはできましたが、
もし心残りがあるとすれば
急変した時、姉と交代していたため、そばにいなくて
「あしゃん、あしゃん」と苦しい中、私の名前を呼んでいたという父に
「ここにいるよ」とすぐに返事が出来なかったことでしょうか。
そばにいてやりたかったなあ・・・

姉は後悔ばかりだと言っています。

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