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野良子猫フクを保護し、数年ぶりに猫を飼い始めた私の、その後フクと過ごした生活と思い出、そして今までのつぶやき
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2012/07/28 (Sat)
普段便りがない人でも
年賀状や暑中見舞いは欠かさない数少ない知人がいる

その人たちには父の訃報は知らせていない。
だから、まず父の訃報と近況を書く。

そうすると、父の亡くなる前のつらくて悲しい時間を思いだしてしまい
返事を書く度に涙がこぼれてしまうのだ

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2012/07/23 (Mon)
今日は2回目の月命日です。
初回は初月忌ということで正式なお参りがありましたが
(実際は日が早くなってたけど)
今回は家で家族がそれぞれお経を言うだけ。
でも、私は一応前回も、父の好きだった素麺(にゅうめん)を御供えしました。

といっても、たぶん父が1番好きだったのは肉だと思うんですが
亡くなる前に食べられなくなった時も
この素麺だけは頑張って食べてくれたので
思い出深いのです
なので、物足りないかもしれないけど
素麺を炊いて御供えしてます。
(でも、腐るので当日下げますけどね)

今でも父の辛い日々を思い出すと
涙がこぼれます。

もういないなんて信じられないなあ・・・

お父さんがいなくなって
いろいろ問題が起きているよ
大変だな・・・
こんなに頼ってたんだな
それに長い間、すごい責任が伴ってたんだな
確かに肩の荷を下ろしたいと言った父のことが
今よくわかるよ
あの時は私も父は自分が楽になりたいからと反発してたけど
今はわかる気がする
お疲れ様
もうちょっと早くわかっていればよかったなあ
そうしたら、私の人生も変わっていたかもしれない
もう遅いけど
その点だけ、父に申し訳なく思う

ちなみに姉は今日が月命日だって覚えてるかな。
野菜を取りに来るはずが、体が不調でキャンセルしたけど
てっきり月命日で家に来るのかと思ってたけど、そうでもなかったのかな

あ~あ・・・いったいなんのために生きてるのだろうな

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2012/07/22 (Sun)
ここ2日雨が降って気温が下がり
しかもゴミ出しが休みのため
汗だくにもならずゆっくり寝られて嬉しいが
寝すぎると生活サイクルが乱れるのが困ります

それはさておき
今朝がたの夢に父が出てきました。

前後は不明ですが
二人で病院かどこかに向かっているみたいです。
でも、今まで行っていた病院ではなく
駅を遣うような遠いところのようです
しかも、なぜか途中で父の年金関係の施設があったりして
東京??とか思ったり
駅かどこかを二人で向かっているのですが
父はとても元気そうなのです
でも私は父が病だということを知っているので
それを不思議に思うと同時に、切なく思いながら一緒に歩いているのです

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2012/07/06 (Fri)
父を想ってオイオイと泣くことはないけれど
ふとした拍子に思い出して泣けてくる

今日もJAに行ったんだけど
今日はつい「ああ、この道も父と散歩したよなあ」って思ったら
JAについてから涙が出てきて困りました

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2012/07/05 (Thu)
父が亡くなってから慌ただしくて
体調も崩して
あと少しで四十九日を迎える

その間、私は父の入院前の苦しさを思い出しては心を痛め、涙をこぼしていた
だから、夢でもいいから会いたいということは
あまり言えなかった。

今頃になって、ようやく寂しさを感じるようになったかもしれない

父の死後、初めて夢に父が出てきたのはほんの少しだけ

裏の窓から怪しげな人が来ていて(なんでか毎回裏にはいい印象がない)
怖くて私は親を呼びに寝室へ行くと
父と母が飛び起きるという、たったそれだけ。
その後、父がどうしたかという夢の続きはない。

そうして昨日、昼寝か夕寝か忘れたが
眠くなって横になった時うつらうつらしていたら
夢に父がいた
気がつくと、父は穴のあいた半ズボンをはいて
私が穴があいてることを指摘すると
「そうかあ?」照れくさそうに笑っている
体重計でも乗っていたのか
しかし、その一方で、これはいつのこと?
父が病に侵されている時のこと?
おかしいと思って振り返ると
後ろにも父と母が座っていてぎょっとする

ああ、これは夢なんだ・・・もう父はいないのに・・・
最近私は夢の中で意識を手離すことが多い
そうして目が覚めた

と思ったら、引き続きなんか夢を見ていたみたいで
前後の流れはよくわからない
なぜだか家の中に松か何か木の枝を入れていて
そこに毛虫みたいなのがいっぱいついてて
私は(毛虫が大嫌いなために)ギャーと叫んで頭を抱えているのだけど
その時、ああ、もう父はいないんだと
毛虫をとってくれる父はいないんだなあと目が覚めた

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2012/06/26 (Tue)
(6月1日に、5月26日のことを回想した記事)

葬儀が終わった次の日には
少しはホッとできるかと思ったのですが
甘かったようです。
お通夜と葬儀は式場を借りたのですが
出席できず自宅へ香典を持ってきて下さった近所の方も大変多く
父が亡くなってすぐに翌日通夜と葬儀だったため
その場でお礼を渡すことが出来ず
そのため葬儀が終わってから会葬御礼の粗品を配るはめになったのです。
(地元の取り決めで、香典の金額は少なめにして「返し」はなしということになってますが、粗品だけは渡さないといけないので)

ところが、私は実家に住んではいますが
外に勤めていたため田舎の付き合いが全くなく
地図を見ないと、どこにだれの家があるのか知りません。
そのため、母にバカにされつつ
近所に住む(かなり年上の)いとこに道を教えてもらいながら
その会葬御礼を配ることになりました。

正直、私と姉は年が離れていますので
配った家では、「○○ちゃん?」とか「お姉ちゃんのほう?」とか言われて
姉さんが配った方がよかったんじゃ?と思いましたが
姉さんは「あんたのほうが、ここに住んでいるのが長いから」とか言うんですよね。
まあ、それはともかく、その日留守で配れなかった人は
(また従兄に頼むのは申し訳なかったんで)
夕方姉と一緒に再度回ることにしました。

そうして、その日の夕方姉と回って
今度は姉に玄関先に行ってもらったんですが
その時、2軒ぐらいの家から
「お父さん、妹さんと歩いていたのにね~」と声をかけてもらったそうです。
それを聞いて、私は鼻がつんとしました。

それは父が手術を受ける前に
医師からお腹をひっこめるように言われて
散歩をしていた時のことです。
私は自分で調べて、すでにこの病気の厳しさも、手術をしても余後はよくないだろうことも知っていました。
けれど、それでも父に1日でも生きてほしいと、前向きになってほしいと、一緒になって、父につきあっていました。
(そんなことは知らない)母や姉は、
私にそこまでしなくてもいいだろうと言っていましたが
体が疲れていても、天気がいい日には1日2回、散歩の時間には
父と一緒に近所を歩いていたのです。

その散歩のコースは毎日違っていて
飽きるといけないからと、父は「今日はどこに行こうか」と考えて。
地元ながら、私も知らない場所がたくさんあって
「こんなところがあったんだなあ」と驚きながら父と歩いていました。
自分でも、貴重な時間だなと思っていました。

そんな散歩の途中で、
(私は名前も顔もろくに知らないけれど)畑や庭で会った人たちが
歩いていた私たち親子を覚えていたのでしょう。
本当に切なくて愛しい散歩の時間でした。
ほんの2か月前のことです。

後日、母に「ここの道もお父さんと歩いたよ」とあちこちで言うと
母は「お父さんは死ぬ前に、町全体を歩いて回ったんやなあ・・・」
とつぶやいていました。

そんなことが思い出されます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

父が亡くなって早1週間以上経ちました。
四十九日までの法事の準備とか、公的機関での手続きとか
家のかたづけとか、手続きの調べ物とか
引き続き慌ただしい日が続いていますが
とうとう疲れが体にきたのか
昨日の朝、起きたら体の不調が目に見えてきました。
なので、昨日から出かけず家で休んでいます。

・・・とはいえ、横になろうとすると
香典返しの商品を勧める業者さんとか
仏壇やさんとか来たりして落ち着かないですね~
ああ、位牌も頼みに行かなくちゃ。

父が亡くなる数日前に注文してしまった高い健康食品が
亡くなってからいくつか届いたので
仕方なく私が飲んでいます。
これで疲労回復できるといいなと思いつつ。

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2012/06/26 (Tue)
父が亡くなる21~23日の間
病院にずっとつめていましたので
途中姉とは交代していたものの、1~2時間ほど横になるぐらいで
ろくに寝ていない状態で、そのまま父が亡くなったので
そのまま息つくひまもなく、超忙しかったです。
(今も忙しいけど、心の整理中)

あの後、病院から父が自宅に戻り
親戚が集まって、住職を待っている間も
葬儀の話し合いをしなければならず。

今回の葬儀では、母が喪主になりましたが
母は高齢で、体も不自由なため
それは名前だけで、実質は私が喪主となった感じです。
なので、挨拶もすべて私がしました。
(母と一緒に立って挨拶しました)
後で別に長女である姉が喪主でもよかったんじゃないかと思ったんですけど、その時はよくわからないまま私に話がふられたので、うなづいていました。
内心、父のことは私がしなくては・・・と思っていたのかもしれません。
とはいえ、私も全く初めてのことですし
そもそも知識がありません。
調べればわかることも、父が亡くなることを考えたくなかったので
事前に調べることもしていませんでした。

(こういう時、仕切ってくれる親戚がいれば頼もしいのですが
残念ながら、父に一番近い叔父は分家のため
全く葬儀に詳しくなく、それで何かと口を出してくるので
葬儀が終わるまで正直家族が閉口することも多々ありました)

私たちが、葬儀社の人と
あれやこれやと話をしている間に
仏間では、すでに住職さんがやってきてお経をあげていてくれました。
途中で合流しましたが、(病院でも涙はあふれましたが)
お経を聞いているうちに、また涙がこみあげてきました。

なんていうんでしょうか。
父が亡くなって
翌日の納棺の時も、斎場で骨になってしまった時も
父がいなくなったというよりも
父の存在はあるんだけど
その体はもう抜け殻で、父の魂が入っていないから
自分も何も感じない・・・みたいな。
その時はあまり悲しさを感じないのですが
今までの父の頑張りとか、後半のつらさを思うと
こんなに頑張ってきたのに、生きられなかったね・・・
私もいろんなことをしたのに、
もっと生きていけるかと思ったのに・・・
こんな数カ月で・・・と思うと
それで泣けてくるんですよ。

なので、泣かない時と、涙があふれる時の
気持ちのギャップというんでしょうか。
それがありますね。
冷静に見てる自分と、心を痛める自分と。

なので、(不眠と疲労で頭が働かなかったため)
お通夜での挨拶は
もうありきたりな、めっちゃ簡単な文を読んだだけ。
しかし、告別式はやっぱちょっと考えなきゃな・・・と
もらった香典の帳簿を整理したあと、考えてたら午前4時になってて
それでも、なんとか当日滞りなく葬儀をすませることができたのだけど
最期の挨拶は、
(具体的なことは言いませんでしたが)
父の闘病と、急変して息をひきとったことを簡単に言って。
そのまま淡々と読むはずだったのに
「それまでの道のりは決して平たんなものではなく」と言ったところで
今までの、父のつらいことが思いだされ、胸がつまり、涙があふれてきました。
「息をひきとる当日の朝も、自分の力で立ち上がろうと必死で、気丈で、
本当によくここまで頑張ったなという思いでいっぱいです」
そう、あふれる涙をこらえながら続けました。
たった数カ月でしたけど、ホントに長く感じました。
本当に父は頑張ったと思います。
(途中で、もう私たちは父に頑張れとは言えませんでした)
本当は、そんな簡単な言葉では言い表せません。
でも、人に病気であることを告げたくなかった父だから
最期まで強気な父を演出した・・・という思いも根底にありました。

ちなみに、式場の司会の人もプロだからでしょうか。
よくもまあ、私たち姉妹の話から
あんなふうに文章を組み立てるものだと感心しましたよ。
ある意味お涙頂戴みたいで、くさかったですけどね。
事前に、父について聞かれたんですよ。

「どんなお父様でした?」
姉は「小さい頃は厳しかったです」と答えていました。
私は一言では答えられませんでした。

「何か忘れられない思い出はありますか?」
私は、特に何もありませんでした。
この数ヶ月間の、闘病生活があまりにも鮮明で
個々の思い出はあっても、こんな暖かなエピソードがありました、という話は思いつきませんでした。
しいていえば、昔、祖父と孫に間違えられたこととか。

「最期にお父様に言いたいことは?」
と、聞かれたけど、特に何もなかったです。
あえて言うなら、「頑張ったね」ぐらいでしょうけど
っていうか、もうすべて言いたいことは父に言ってきたと思うので。
そりゃ、父が期待して、私にできなかったことは、ごめんねと言いたいけれど、出来ないものはどうしようもないんで。
小さなトゲのような後悔はどうしてもありますよ。

あれは急変する前、20日の日だったかな。
姉が病室に来た時、
「あしゃん、疲れたの?毎日だもんね」と声をかけてくれたんですけど、
父も「毎日やでなあ・・・」と言うんですよ。
(姉はたぶん、特に他意はないと思うんですけど
「お父さんが元気にならないと、あしゃんも自分のことができないから」と言ってたことがあって)
そのたびに、私は父が気にしないといいなあと思ってました。

周りが「あしゃん、えらいでしょ?」って心配して言うけど、
私は自分のことをえらいとか、父の世話をするのがつらいとか思っていませんでした。
そりゃ、父の食事を考えたり作ったりするのは大変だったけど
イヤイヤやってるわけじゃなかったし
ホントにつらいのは父の方だと知っていたし。

だから、姉が帰った後
私は父の目線に合わせて言いました。
「お父さん、私大変じゃないからね。気にせんといて。
私は好きでここにいるんだから。
私はお父さんといたいから、毎日来るんだよ」

そう言ったら、父は
「ようわかっとる。ようわかっとるで」
そう言って、ほんの少し泣いていました。

幸い?最期に父を看取ることはできましたが、
もし心残りがあるとすれば
急変した時、姉と交代していたため、そばにいなくて
「あしゃん、あしゃん」と苦しい中、私の名前を呼んでいたという父に
「ここにいるよ」とすぐに返事が出来なかったことでしょうか。
そばにいてやりたかったなあ・・・

姉は後悔ばかりだと言っています。

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2012/06/26 (Tue)
23日の早朝2時半ごろだったでしょうか
父の紙おむつのパッドが不足していることもあり
メールで連絡をとっていた姉が病院に来てくれて
私と交代してくれました。
私は2時間ほどデイルームで横になって休んだ後
朝6時ごろ病院を出て、一度自宅に戻りました。
(自宅には車で30分はかかります)
予定では、お昼頃に病院に戻り、姉と交代し
姉には帰ってもらうはずでした。

その自宅へ帰った時に書きこんだのが
22日の日記の追記部分になります。
なので、まさかその日の午後に亡くなるとは思いませんでした。

朝9時ごろ、念のために携帯をそばにおいて横になっていると
メールが入りました。
『すぐにきて!お父さんが苦しそうです』

それを見て、私は飛び起き
母を連れて昨日のままのかばんを持って車に乗り込みました。
と同時に、父の弟である叔父にも連絡。

運転中、しばらくして再びメールが入りました。
部屋番号が変わったらしいので、とりあえず命をとりとめたのかと
間に合ったとホッとしました。

新しい病室(個室)に入ると、父は酸素吸入器(今度は鼻だけでなく口元も)をしていました。
でも、ちゃんと意識があって、言うことも聞こえてうなづきもしてくれたので、安堵としました。
私は父の目を見て、「ここにいるから」と言いました。

姉の話によると、朝8時半ぐらいまではまだ自分でトイレに行こうとして、押しとどめていたそうです。
ですが、姉が席をはずして戻ったときに、
苦しそうにしており、慌ててナースコールを押したそうです。
すぐには看護師さんも来てくれず、姉も焦ったと言います。
父はその時、私の名前を呼んでいたそうです。

その間、叔父が来て、私が渡した親戚の名簿に連絡して
昼前から午後にかけて親戚があちこちから駆けつけました。
ほとんど市内なので、わりとみな早く来ましたね。
みな、それぞれ父に声をかけると、父はうなづいていました。

血液の酸素量も少なくなって、酸素吸入器もMAXにして。
家族はみな酸素量の数値を見ながら、
父の手足をさすっていました。

その頃はまだ父も足をもぞもぞ動かしていましたが
次第に動きが鈍くなりました。
そのうち、うなづきもしなくなりました。
呼吸も苦しそうです。
『お父さん、もう少しだからね』
私は父に手をふれながら語りかけていました。

途中医師が来て、かなり心臓の動きが弱くなっているから
今日から明日にかけて亡くなるだろうと言われ
親戚に告げると、一度家に戻り、また連絡してくれということで
それぞれ帰って行きました。
母と姉も今晩は泊り込みになるだろうから、その時のために、自宅の座敷を掃除しないといけないということで、病室を抜けました。

そして、病室に残っていたのは、私と甥と姪の3人でした。

その間も、私たちは交代で父の体をさすっていました。
さすっていると数値はあがるけれど、止めれば下がるので
もうすぐその時が近いかもしれないと、私は思いました。

そうして、腕をさすっていた姪がふと言いました。
「ねえ、おじいちゃん。息とまってないよね?」
「え?」
足をさすっていた私は顔をあげました。
父を見ると、顔は微動だにしていませんでしたが、心臓はかすかに動いています。
私は父の胸に手をおいて
「まだ心臓はゆっくりだけど動いてるよ」
と答えながらも、瞳が渇いているような気がして・・・
とその時。

医師と看護師が心電図の機械を持って入ってきました。
それを見て、とうとうその時が来たんだなと思いました。

医師は心臓は動いているというより信号を出してはいるが
ほとんど止まっていると言いました。
私は「まだ耳は聞こえますか?」と尋ね
もう聞こえていないかもしれないけれど
私たちは呼びかけました。
「お父さん、私はここにいるよ!」
「おじいちゃん!」

・・・・・・・・
そうして、5時25分、父は息を引き取りました。
私と姪と甥の3人の前で。
医師が死亡確認をしました。
他の家族は間に合いませんでした。

姉と母は、連絡を受け、家に帰る運転中だったところ、すぐに引き返してきました。
まだ付近にいた親戚の一部も戻ってきましたが
その他の親戚は、自宅に電話すると、さっき会ったばかりなのにと訃報に驚いていました。

その後は看護師による遺体処理が済むまで
葬儀場と寺の住職へ連絡をしていました。
父の遺体は迎えが来るまで地下の安置所に置かれましたが
その時、叔父さんの言うこと(苦笑)
「兄貴はろくな人生じゃなかったなあ・・・」

確かに、父は小学5~6年ごろに父親が戦死して
幼い弟妹を養わなければならない長男でした。
そして23歳の頃、母親を失っています。
(自宅で倒れていたそうです)
貧乏ボロ家で、小姑がたくさんいて、嫁の来てがなかったのか
(母いはく、「騙された」という)当時にしては晩婚で
薄給で家をここまで立て直すには、母も含めて大変だっただろうと思います。(母への仕打ちは別にして)
ちなみに、末っ子の叔父が一番父に迷惑をかけていたのでは?と思うんですがね。

でも、最期に家族に見てもらいながらあの世に行くんだから
それほど悪い人生じゃなかったのでは?と思うんですが
まあ、価値観は人それぞれですからね・・・

そんなわけで、眠るように・・・とまではいきませんでしたが
静かに父は息をひきとりました。
少しでもヒーリングの効果があったのかなと思います。

それにしても、亡くなってから慌ただしいですね。
日々の看病に精魂込めていたので
亡くなった時のことをあまり考えてなくて
(というか、父も嫌がる人だったので)
違う意味で右往左往しています。

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* ILLUSTRATION BY nyao *